中世史分科会活動記録~鎌倉編~

 この記事は史学研究会の中世史分科会の活動で遠征を行ったものの記録になります。自分は中世史分科会に入っていないのですが、史学研が普段どのような活動をしているか読者の皆様にお伝えするべく、遠征に参加した部員に記事を書いてもらいました。普段はです・ます調ですが、今回は原文を尊重してだ・である調でお送りします。

 2月25日、中世史分科会の有志4名で鎌倉・江ノ島を訪問した。
3ヶ月以上経過してしまったが、今回は折角なのでそのアフターレポートを簡単に綴ることにした(待っててくれた広報部に感謝)。

 さて当日私たちは11時に鎌倉駅前にて集合……することに失敗した。
途中の乗換駅で友人とたまたま合流できたため気を緩めてしまい、反対側へ向かう横須賀線の列車に誤って乗車してしまったのである。なおこれは些細な問題(?)であるので、このことに関して特段これ以上述べることはしない。

 何故か4人が集結した時点で、既に予定より1時間以上経過していたが、早速私たちは駅から若宮大路を歩き進め鶴岡八幡宮を訪問した。

 源実朝暗殺事件の際に公暁が裏に隠れていたという大銀杏の跡地を横目に階段を上り、そのまま参拝を終えた。そして私たちは横手にある宝物殿へ入場した。源氏三代将軍ゆかりのモノ以外にも、様々な時代の品が展示されていた(※撮影禁止)。鎌倉府や小田原北条氏、秀吉・家康といった、他の権力者と鶴岡八幡宮の関係性というものも興味深い。

鶴岡八幡宮を巡り終えた頃には昼食の時間になっていたため、私たちは八幡宮を出た後若宮大路を引き返し「鎌倉お昼ごはん」という店を訪問した。

私は美味い竜田揚げを食べることができ満足、見る限り魚介料理も魅力的だったので是非また行ってみたい。半分くらい奢ってくれた先輩に感謝を……。

昼食後も若宮大路の南進を続けた。道中、ビルの地下に保存・展示された北条泰時邸跡を発見した。

 現在も首都圏を形成する一都市として栄える鎌倉市において、歴史遺構保存と開発の二つを両立することは非常に難しいといえるだろう。実際鎌倉市では宅地造営で失われてしまった史跡も多いと聞く(世界遺産になれないのはそのためだとか)。私としてはこの北条泰時邸の事例は好感を抱いた。後世の都市開発は多くの歴史遺構を埋没させ、それらを人々の記憶から忘却させてきた。こうして少しでも遺構を整備して継承することで、我々はこの町を歩く時にかつての鎌倉の歴史を随所で思い起こすことが出来る。

鎌倉にはそういう町であってほしい。

スーパーで買ったアイスを片手に若宮大路を歩き続けた私たちは由比ヶ浜に到達した。
そのまま鎌倉大仏のある長谷まで歩いた。
江ノ電を使わない鎌倉大仏までの移動は新鮮であった。

鎌倉大仏は色々と謎の多い存在である。そもそもいつ作られたのかもよく分からず、大仏殿もいつどうなったのかよく分かっていない。雨晒しになりながら佇む鎌倉大仏では、50円払えば胎内に入るという不思議な体験も可能である。外の見えない大仏内では歴史ロマンを全身で感じることが出来る、素晴らしい。

大仏を見た後は先輩の案内で近くの甘縄神明宮へと向かった。

 ここは飛鳥〜奈良時代にかけての在地豪族、染屋時忠が建立した鎌倉最古の神社という。源氏の拠点化以前の古代鎌倉の歴史である。先輩に教えてもらわなければ、私はこの場所の存在を知ることは無かっただろう。中央から遠く離れた辺境の地で、古代はどんな生活があったのだろう。今ではすっかり歴史の影に隠れ、染谷も伝説的な人物とされている。

甘縄神明宮は古代から紡がれてきた鎌倉の雄大なパワーが身体に振り注いでくるような場所であった。

こうして鎌倉を散策し終えた頃にはもう日没も近づいていた。
私たちは気まぐれで江ノ島へと移動し、店や観光スポットが閉まり徐々に静寂に包まれてゆく島内を巡り歩いた。

誰も居ない真っ暗な海岸の岩場に打ちつける波の音は、どこか心地よい気分にさせてくれた。
夜の江ノ島の風景を初めて見て、かつてこの地が信仰の地として栄えた理由が分かったような気分になった。

 私は湘南の地元民であるため、これまで何度も鎌倉・江ノ島を探索している。しかし今回の旅では両所の知らなかった要素を沢山発見することになった。よく見知ったと思う場所でも、一緒に行くメンバーやその日の環境が違えば、新たな学びがある。江ノ島を見終え藤沢駅で同行者と解散したとき、私は満足感に包まれていた。

 いかがでしたでしょうか。一部読みやすくするために句点をつけた部分がありますが、それ以外は原文ママです。これからも、史学研の普段の活動を紹介してまいりますので、何卒よろしくお願いします。

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